浮いている。
一隻の船が空高く浮かんでおり、青々と陽気な海の上を滑るようにして進んでいる。
それは広大な空の、遥かその先を目指して進んでいた。散り散りになってしまった神秘を求めて。海の秘密と魔法の正体を求めて。
そしてその船の最下層部にある、もっとも小さな窓から顔をのぞかせている一人の少女がいる。
彼女の名前は森本文歌という。
キノコのような形の黒い短髪に、お気に入りの緑のワンピースを着ており、そして輝く栗色の瞳をたずさえている。
窓からつぎつぎに流れていく外の景色を眺め、休息をしていたところだ。
ギャレーで乗組員に振る舞う料理を、ただいま作りきったところであり、どうやらそのせいでもうへとへとらしい。けれども頭は依然として働いているらしく、広大に横たわる海を見つめては、その奥底には一体何があるのやら、と想像をむくむくと膨らませていたところだ。
「深い青色やなァ」
遠くに広がる紺碧の海に魅せられて、一人つぶやく。どこまでも続いている波の模様は、踊るように往来している。まるで一心同体。ゆらゆらと楽しげにゆれている。
一定のリズムで、まるで誘うように踊る波。何かを伝えるかのように立ち現れる、一瞬一瞬の図形。それらは次第に、彼女の気分まで飲み込んでいくような気がする。その波の舞踊に目が奪われそうになっていたそのとき——
ザバァン
——と、音までは聞こえないが、確かに、海面上でそのように水飛沫があがったのだ。それは遥か南の方角で起こった。そのきらきらした輝きを、彼女は身を乗り出して見つめる。
その水飛沫の上がりようといったら、海の底で小規模な噴火でも起こったかのようだった。それでいて、まるで長い眠りから目がさめるような、夜空に打ち上がるよ花火のような、あるいは花咲くような、そんな突出だった。
何が起こったのだろう、と文歌が目を凝らして見つめると、
「やや、鯨や!」
辛うじて、黒く巨大な、それでいて岩のようにゴツゴツとした尾びれが海の表面上からゆるりと姿を消すようすを見つめた。一瞬のことだったが、それは確かに鯨の尾びれだった。そして彼女の眸はきらきらと、満天の星たちのように輝くのだ。
「運がええなァ」
まだ水面がわずかに、その部分だけ不規則に揺れていた。当の鯨は、もうすっかりと姿を潜めてしまっている。
偶然の幸運に浸りながら、さきほど淹れた紅茶を少し飲んだ。柑橘系の芳醇な香りが文歌の鼻腔を吹き抜ける風。
遠くの海の彼方を見つめている。
微かに揺れる金色の髪を追いかけて、梯子をのぼりゆく。遠くに騒がしいボイラーの音が聞こえていた。ハワードはすいすいすいと登っている。その後を文歌がえっせえっせと追いかける。まさにそのときだった。
——と、高い音が静けさを破って鳴り響いた。どうやら、ハワードのズボンのポケットから何かが滑り落ち、床下にぶつかって跳ねて転がったらしい。
「あれ、なんか落ちたよ! ビー玉?」
と文歌があわててハワードにおしえる。
確かにそれはビー玉くらいの大きさだった。けれども、それはひとりでに蒼い光を放っている。ふしぎな淡い光だ。
二メートルほど下の床へと落下し、ころころと転がっていく。
「あ、うちが取ってくるわ」
それを見てすぐさまそう言った文歌に対して、
「いいよいいよ。あとで、帰りに拾っとくからさ」
とハワードはやや面倒くさそうにそう言って、再び上へと向かおうとする。
「いやいや、取ってくるわ」
そう言うなり文歌は梯子を飛び降りて、逃げるようにして転がるその玉を、夢中で追いかけた。やることなすことが大雑把なハワードとは違って、小さいことが放っておけないのだ。
けれども船が傾いているせいなのか、文歌の追うその玉の転がる速度はどんどんと加速していく。それを躓きそうになりながらも待って、待ってと追いかける。けれども、
トン
トン
トン
「あぁ」
階段から下の階まで転がりながら落ちてしまった。
一筋の光がすらっと暗闇にのまれてきえてゆくのをみとめた。
ひととき、文歌は躊躇った。はっと、いきをのむ。
けれどもやがては、文歌もめげずに追いかける。自ら、真っ暗闇の中に飛び込んでいった。後ろからハワードの急ぐと危ないよ、と注意する声が聞こえる。けれども、そのときにはもう文歌の身体も暗闇にのまれていた。
文歌は手すりに掴まりながらも、螺旋階段を急いで降りていた。
「こんな階段あったっけな」
そんなことを考えながら必死でくるくると回り降り、落ちてゆくその玉を追いかける。しかし、いくら降りたところで下の階へと一向に辿り着かない。延々とその階段が続いていたのだ。
「なっがいなァ」
それはもう、不安になるような長さだった。
依然として、あたりは真っ暗でよく見えない。その中を手すりを持ちながらいそいそと下降する。
やがて三分、いやもっと経ったかもしれない。もう引き返そうかと思いはじめたそのとき、下フロアへとようやく辿りついた。文歌の足が、地に触れる。
そして辺りを見渡した。
文歌はありえへん、と思った。
そこは暗い廊下だった。どこまでも続く長い長い廊下だったのだ。
船内にこんなところがあっただろうか、と思う。ときに魔法によって変化をしてしまうような船の内部構造を、完全に知り尽くしているわけではないが、このような奇妙な空間に少し違和感を覚えた。
そして薄闇の奥をじっと眺めると、何かが薄っすらぼんやりとひかり輝いていることが分かった。