KyotoYume
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 大路彼方は授業を受けていたが、気もそぞろであり、なかなか授業に集中することができていなかった。昨晩見た夢について、ついついと考えてしまうのだ。  
 そして、休み時間になるや否や、森本文歌に夢でした体験についてを細く、尋ねたりしていた。
「……ハワードがな、そんとき言ってん。『フミカの故郷の話を聞くとなんだか、僕が昔住んでた町をごっちゃにして、それをふたたび算数ノートに綺麗に並べたって感じがするなぁ』ってな。うち、全く意味わからんかったから、『ハワードは算数できるのん?』って尋ねてな……」  
 妙楽明人は昨日ちょっとした用事で徹夜したと言っており(何の用事かまでは秘密主義の彼は教えてくれない)、半睡状態ながらも、この突拍子もない話を隣で聞いていたが、やがて、「小学校の夢は永遠なんだけれど僕たちの夢は一週間後の目的さ。むにゃむにゃ、ところでいつすり替えがあったのだろうねえ」と言うなり、本格的に寝こけてしまった。  
 
 そしてさらに教室の仔細を叙述するなら、このような様子が面白くのないのが菊谷千明だった。  
 鋭敏な千明のことだから、自分のボーイフレンドである彼方が最近、どこか「心ここに在らず」だということを、電話をしているときでさえ正確に見抜いていた。しかし、それを直接言うことは避け、あくまでも明るく接することで問題が解決するのだと信じ、彼との時間を過ごしていたのである。  
 
 けれども、今の彼方はまるで蘇ったようにいきいきと、春に芽吹く草花よろしく、まことに楽しそうに、あの森本文歌と話している。よりにもよって、おしゃれの「お」の文字も知らないようなあの森本文歌と、である。  
 これは一体、どういうことなのだろうか。  
 菊谷千明は、自分と同等の美しさを持つ、他の「四美人」たちと話しながらも、やりきれない思いに苛まれ、度々、露骨に文歌のほうを見てはキッと睨んでいた。美人なだけに恐ろしい表情になる。  
 やがて、他の四美人もその様子に気づき、特に千明の腰巾着的な位置にいる式部晴瑠などを中心として「森本文歌はいかに変わりものであるか」や「しみったれた本を読むことの意味について」といったことについての話し合いがされることになった。  
 
 そのような不穏な空気が教室の一角を包んでいたことを、彼方は知りもせず、放課後、六時間の授業を通して睡眠をとり続け、遂には完全回復した明人と冗談を言い合っていた。そして、そんなお気楽な彼方のスマートフォンに、ピロリンと通知が一つ舞い降りたのである。  
 彼方はそれをしばらく見つめて、みるみる青ざめた。そしてその後、「ああ、やってしまった」とだけ小さく呟いた。
「どうしたの?」とさっきまで鳩の真似をしていた明人が尋ねる。
「いや、あのな。今日は伊織姉さんとの約束だったんだ。そしてそれをおれはすっかりと忘れていたときたわけだ」まるでこの世の終わり、といったように彼方が言った。
「わーお。それは怒るよ、あの人。あの人より怖い人はいないと、僕は小学生のときに思い知ったんだからねぇ。僕のお尻にはいまだアザがあって、そのことによって僕は永遠に赤ちゃんなんだけれど、どう、見てみる? 僕のアザ」
「いや、見ない。けれど、怒るかな。二時間くらいの遅刻なら、まだ許されないかな……」
「よし、お尻のアザが十分につき一つ生成されると考えてみよう。さあ何個? 百は越えるね!」
「でも、今日は外せない用事があるからさぁ」
「といいますと?」
「昨日言わなかったか? ほら、学級長委員会だよ。おれ普段予定がないから、何も考えずに伊織姉さんとの予定を入れてしまっていたんだ」
「そういえば、そんなことを言ってたっけか。ふむふむ。よし、じゃあその学級委員長会とやら、僕が出てやろうではないか。聞くところによると君、通常、一時間もせずに終わるはずの学級長委員会とやらが二時間になってしまっているのは、僕の問題児性、問題行動、問題を生成する問題という厄介なアポリアそのものが存在するからとか何とか。会議は踊る、頭の中で。僕がそこにいくことによって、会議はただの観念論ではなくなって、たちまち、現実の具体的な問題を突きつけられることになるだろうさ」
「それはつまり、代わりに出てくれるってことか?」
「だからそう言ってるだろう?」  
 明人がニヤリと笑い、そう言う。決して頼もしいというわけでもなかったが、それでも、彼方はたちまち貴方こそが救世主とばかりに讃えた。
「今度奢るよ。何が欲しいのか、会議の退屈しのぎにでも考えておいて」  
 彼方はそう言うと、伊織への返事として、「まさか忘れているわけはない。きちんと時間通りに行くから」というようなことをメッセージでそそくさと書き、送った。
   
 
 長目伊織、彼女は大路彼方の従姉である。  
 現在は大学一年生だが、一年前まではこの聖上学園高校の生徒会長であり、園内でも異色の存在感があった。  
 彼方は電車に揺られながら、小学生のときによく伊織と遊んだことを、それとなく、思い返していた。  
 普段はお気楽なあの明人が、伊織を恐怖の対象のようにして呼んでいたのは、半分冗談だろうが、もう半分は本当にそう思っているのだろう。  
 彼女は、今の「聖上学園四美人」に劣らない美貌を持ち、周りのものを常々、いとも簡単に手中に収めてしまう。  
 自分の計画通りに周囲を設計するのであり、景観を整えるのであり、それに沿わないものは徹底的に追放する。従順だった彼方などはお気に入りとして、従者のように横においておき、甘やかしたりもしていたが、それとは反対に反抗的な態度を見せる明人には、度々きびしい「お仕置き」を与えられていた。  
 それでも明人が追放にならずに済んだのは、彼が彼方の親友であったということと、ある程度顔立ちが整っていたからであろう。  
 
 伊織と遊ぶときは、二条城近くの公園で遊ぶことが多かった。そこそこの広さのその公園には、小さいながらも流れている川があり、それが注がれるこれまた小さな池があり、遊具が充実しており、全体としてこの辺りと同様、長閑な雰囲気だ。  
 まず、彼方や明人たちが『ハワードの冒険』ごっこなどをして遊んでいる。
「港(ベンチ)についたぞ。ここに荷物を置いておこう。まずあの、鬱蒼としたジャングル(木々)に潜んでる精霊に会いに行こう。蜘蛛の巣(アスレチックネット)にはくれぐれも捕まるなよ! あと、夜(三十分後)には、街の広場(南のグラウンド)で決闘さ! これまた、忘れるな」  
 公園の遊具を物語の中の世界に見立てて、空想の世界を現実に描き出して遊んでいた。子供特有の想像力は、辺りをなんにでも変えることができるのだ。  
 そこに、長目伊織がやってくる。何かを考えるようにして、難しい顔をしながらやってくる。実は、彼女は人間の生きる意味と、人間は死んだらどうなるか、そしてそれらを考えることは何を意味するのかについてを考えていたのだ。  
 楽しんでいた子供たちの笑みは消えた。そして、今度はなんだかひきつった笑みを浮かべ、「待ってました!」とばかりに伊織に駆け寄った。
「ちょっとみんな、大変よ。ハワードが異端審問で、教会の地下の牢獄に捕らえられてしまったわ。あそこよ」  
 彼女は、アスレチックネットを指差した。
「あれは巨大蜘蛛の巣だよ」何て見当はずれな、と明人が言う。  
 伊織が明人をじっと見下ろす。
「そんでハワードはこいつ」明人が彼方を指差す。「おれは相棒のソベルニってわけ。おれたちは今から神秘の森に行って精霊の言伝をもらいにいくから、伊織ねえさん、いや、ロッテンマイヤーさんは港で入国手続きをした後、街のカフェにでも入っといて」  
 伊織は黙って頷いていた。彼方は明人を見て、伊織を見てと繰り返していたが、やがて伊織が静かに笑っているのを見つめ、驚いた。
「あなたは残念ながら、ソベルニではないの」  
 やがて伊織が、さもかわいそうに、と言うように言う。
「あなたはね。自分を英雄ハワードの参謀だと思い込んでいる病気の患者なの。それも、末期のね。まあ、もちろん、言ってもわからないだろうけれどね」
「いいや、おれは確かにソベルニだ! 生まれたときからずっとさ。どうしてそんなことを伊織姉さんに決めつけられなきゃいけないんだよ!」
「そう思っているのは、あなただけよ。さぁ、このベッド(ベンチ)で寝ていなさい」
「いいや、ここは広々とした港だ!」
「いえいいえ、そう思っているのは、やはり、あなただけなのよ。あなたはここの病院にしばらく入院していないといけないわ。そうでないと、この恐ろしい病気は他の人々にうつってしまうんですもの!」  
 そう言って、伊織は彼方や他の子供たちのほうを向いた。そして彼方を見下ろして、「あなたは自分が誰だか覚えている?」と尋ねた。
「ええっと、ハワードは異端審問で捕まってしまっているから、えっと、僕は……」
「あぁ、かわいそうに。自分の名前が思い出せないのね。あなたの名前は……」  
 
 伊織は次々とルールを、手玉にとるようにして変えていった。そしてそれに翻弄される彼方と明人たち。けれども、ときに反抗する明人を除けば、純粋無垢な子供たちはその教えに、いちいち従っていた。従ってさえいれば、特に不自由なく遊びを続行できるのだ。従弟で顔もかわいかった彼方は、伊織に特別扱いをされていたということもあって、それに反抗しようなどということについては、夢にも思うことはなかった。 
 
 それからしばらくのときが経ち、さすがに、ハワードごっこのようなことはもうしなくなったが、それでも、伊織はやはり伊織だった。あの味方と敵をはっきりと分けるような態度は今もなお健在であるらしく、去年、彼女がこの高校の生徒会長だったときも、そのことによる災いが少なからずあったという逸話が、彼方の入学当時にさえ残り、響いていた。  
 そのような話を聞いて彼方は、「伊織姉さんも相変わらずだなあ」と思うわけである。  
 伊織の性格をむしろ、愛すべき性格の一部分だと思っていた彼は、客観的に見ても、彼女が多少の無理を言うのは仕方がないと思っていた。美しく、才気に溢れ、技芸に優れ、やることなすことを他の追随を許さないほどに完璧にこなす彼女は、彼の憧れでもあったのだ。  
 
 やがて電車を降り、観光客とともにしばらく歩いていた彼方だったが、ふと道を外れると、辺りは静寂に包まれる。  
 静かな住宅街。摩耗することなき古都の空気がここでは息をしているかのようでさえある。  
 木の葉のささめき、民家のテレビの音、足音がアスファルトを打つその響きに彼方はいささかの郷愁の念を感じながら、その先へ進む。

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